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  2. 拳正寺 ご縁起・由緒

拳正寺(けんしょうじ)は、徳島県阿南市羽ノ浦町中庄にある高野山真言宗の寺院です。由緒あるこのお寺ですが、開基・創立は定かではなく、わずかに残る資料より現在の住職で二十七代目を数えることができます。

境内は観音山(かんのんやま)の中腹に位置し、徳島県内では徳島市の弁天山・七ッ山に続いて3番目に低い標高29.0mの低山です。中腹には6世紀末~7世紀初め頃に築造されたとみられる直径約12m、高さ約3.5mの円墳があります。横穴式両袖石室を持ち、規模は全長7.35m、玄室長4.3m、幅2.1m、高さ2.0m、羨道長3.05m、幅1.1m、高さ1.5mとなっています。また石室の奥には、弘法大師空海が観音山で修行の折につくったとされる如意観音の石佛が祀られています。

戦国時代に藤原氏からの分かれである城主の湯浅吉衛門豊後守国貞が中庄城(湯浅城)を築かれました。湯浅氏は足利氏に反抗し、数戦を交えたが1582年(天正10年)に中富川の戦いで討死、中庄城は落城しました。現在は城砦だけが残るのみとなっています。その後、江戸時代の初期に那東黒松から現在の境内がある観音山の中庄塁跡に堂宇が移建されました。
徳島藩主であった蜂須賀氏(天正13年(1585年)入封)とゆかりもあります。今現在、拳正寺に隣接する羽浦神社は、明治43年に中庄村、宮倉村に祀られていた和耶神社等23社を村社八幡神社に合祀されました。元々は八幡神社としてありましたが、天正年間(1586頃)阿波蜂須賀家政公が国内平穏、家運長久、鷹狩り安全のため参拝され、この際に拳正寺をして八幡宮の別当職たらしめ、当社の社殿を再建されました。慶長8年(1603年)蜂須賀至鎮公が蜂須賀家代々の祈願所と指定、その後蜂須賀光隆公が祈願された際、社紋に鷹羽ねの打ち違えを用いるように仰せられ、爾来国主領主が祈願されました。現在に至るまで羽ノ浦の里の総氏神さんとして親しまれ、昭和12年に郷社に昇格しました。

拳正寺は古くは見正寺とも建性寺とも書いておりました。万治4年(1661年)に徳島藩五代藩主の蜂須賀光隆公が鷹狩りをされた時、鷹が丹頂を追い、紀州の方に飛び去ってしまいました。そこで当時の住職であった海範阿闍梨に観音堂での護摩祈願を仰せつけられました。すると翌日、鷹と丹頂は御拳に帰り正に御願成就したのであります。それ以来、藩の御代々様が御武運久と御鷹安全のご祈祷寺として正徳2年(1712年)より毎年五石賜り、観音堂修復の為の山林を頂戴いたしました。その為、寺号「見正寺」をその後、「拳止鷹寺」とするも長たらしいことから「拳正寺」と改められました。